ネパールに戻ってきた

昨年3か月間、富士山よりも高い村にプチ移住していたネパールだが、12月に入るとさすがに寒くなったので、積雪する前に山から下りてインド・ニューデリーで避寒がてらインド料理の食べ歩きをしていた。ただ、1か月以上、スパイスの利いた料理を食べ続けていたら、さすがに飽きてきた。季節もそろそろ春になるので、再びネパールに戻ってきた。


ネパール カトマンズ 空港 駐機

ニューデリーからネパールの首都カトマンズまでは飛行機でたったの1時間ちょっとなのだが、カトマンズの空港が飛行機でいっぱいで駐機スペースがないということで、上空を45分も余計に旋回していた。もともと盆地に作られた小さな国際空港なので、観光客の増加で飛来する飛行機も増え、駐機場所が決定的に不足しているという。こんなに混雑していると、いつか事故でも起きそうな気がするのだが、大丈夫かな?

カトマンズに戻ってきてすぐに、昨年お世話になったシェルパ族の新年の集いがカトマンズであり、誘われたのでついていった。場所はカトマンズのチベット仏教の中心であり、世界遺産にも登録されているボダナートの近く。昼間から人は集まっているようだが、みんなトランプしたり談笑したりするぐらいというので、まず初めにボダナートに寄ってみることにした。




ネパール カトマンズ ボダナート


ボダナートは2015年のネパール大地震で巨大な仏塔にひびが入るなどダメージを受けた。その修理をしたので昔よりもきれいになっている。その仏塔の周囲を時計回りにぐるぐると回りながらお祈りをする参拝客の姿は、昔も今も全然変わっていない。殺傷を好まないチベット仏教なので、人も犬も穏やかだ。


シェルパ族の集いは、ボダナートのすぐ近くの会館で行われた。前にも書いたが、アジアの山岳少数民族はほとんど貧しい生活をしているが、シェルパ族はその特殊な能力で山岳ガイドを勤め裕福になってきた。その有志が寄付を集めて建てた会館は寺院などもある広い敷地に立っており、ここだけ見てもシェルパ族がかなりの財力を持っているのがわかる。


ネパール カトマンズ シェルパ族 集い

シェルパ族のお正月は中国の旧正月に近いころなので、もう過ぎているのだが、カトマンズにいるシェルパ族の人数が多いので、大まかに地域ごとに分けて集いが行われているという。今回は、エベレスト街道のトレッキングの出発点となっている空港があるルクラから上の地域の人々が集まるというので、まさに私がプチ移住していた村なども含まれている。

集いはランチを食べながらトランプしたり、久しぶりに再会した人々と話したりと、昼間はダラダラと過ごしている。夜7時過ぎにディナーが出て、みんなが食べ終わるころになると、今回の担当者に対し「ご苦労さんでした」という感謝の意味を含め、カタという長細い布を参加者が次々と首に掛けていく。


ネパール カトマンズ シェルパ族 集い


それが終わると、自然発生的に参加者たちは一列に肩を組みはじめ、シェルパダンスを踊り始める。このシェルパダンス、動きとしては足のステップだけで、ダンスといっても激しい動きは全くない。しかしこの足のステップが小刻みに繰り出され、まねをしてもけっこうむずかしい。歌詞に合わせて足を動かしているので、言葉がわからないと踊れないのだとか。踊っている最中にどぶろくを指で触る儀式が順に行われていき、カタをそれぞれの首に掛けていく。


ネパール カトマンズ シェルパ族 集い

参加しているシェルパ族の男性は普通の格好だが、女性陣は伝統の衣装をみんな着ている。エプロンみたいなものがカラフルでなかなか美しい。

この集いは、日本でいえば東京で行われる県人会のようなものだろう。ただ多民族国家のネパールでは、それが民族ごとの集まりになるわけだが、首都カトマンズでシェルパ族という民族のアイデンティティーを再確認し、結束を高めるために重要な集いとなっているようだ。

投稿者: asiansanpo

元読売新聞東京本社写真部。2016年3月、早期退職し、アウンサンスーチーの新政権が誕生したミャンマーに移り住み、1年半にわたり全土を回りながらミャンマーの「民主化元年」を撮影。2018年9月からは、エベレストのふもと、標高4000㍍の村で変わりゆくシェルパ族とともに9か月間生活した。日本では過疎地を拠点とし、衰退していく地方の実態を体験している。

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