タウングーからバゴーへ

なんだかんだでタウングーに1週間も滞在してしまった。はじめは何もない街で、こんなに長くいるとは思わなかったが、豪華な朝食につられて長居してしまった。さすがに今日は次の目的地、バゴーに南下しよう。

のどかな田園風景


ミャンマー タウングーーバゴー


ミャンマー タウングーーバゴー

タウングーからバゴーまでは約200キロほどで、しかも最大都市ヤンゴンと首都ネーピードーを結ぶ国道1号線なので、それほど難しい道ではない。午前9時20分、名残惜しいがホテルを出発しタウングーを離れると、道の両側はのどかな田園風景が続く。ちょうど稲刈りが終わったころで、田んぼには藁が置きっぱなしになっている。それを牛車で運んでいた。


ミャンマーの農家では家畜として牛を飼っており、牛を車替わりの牛車として使っている。牛ほどではないが水牛もよく見かける。時には水牛も牛のように車として使われていた。


ミャンマー タウングーーバゴー 

ヤンゴンとネーピードーを結ぶ国道1号線は、一般道としては一番交通量が多い幹線道路。しかし、見ての通り片側1車線しかない道だ。ミャンマーの交通インフラの貧弱さがよくわかる。


ミャンマー タウングーーバゴー 列車

田んぼの中に仏塔があったのでカメラを向けていたら、ちょうどその前を列車が通過した。ミャンマーの列車はそれほど頻繁に走っているわけではないので、こんなタイミングもあるものかと思ってしまった。

中間点のNyaunglebin通過


ミャンマー Nyaunglebin


ミャンマー Nyaunglebin


ミャンマー Nyaunglebin 帽子

正午過ぎ、街に入った。地図を見るとNyaunglebinという街で、タウングーと同じ太さで書かれている。タウングーとバゴーのだいたい中間点ぐらいだ。麦わら帽子がぶら下がる帽子屋があった。




ミャンマー Nyaunglebin サイカー

向こうからサイドカーに荷物を満載したオートバイが走ってくる。見た感じ、夜逃げをする一家のように見えて笑ってしまった。後ろから見ると、大きな鍋やイスを積んでいるので、家族で屋台を出しにいくのであろう。


ミャンマー タウングーーバゴー 寺院

変わったお寺


ミャンマー タウングーーバゴー 寺院

さらに1時間ほど走ると、ちょっと変わった仏塔を見かけた。近くの人に聞くと、ここはカトユアマ村というところで、寺院の名はマハボディジェディだそうだ。境内にはミャンマーの寺院で時々見かける、仏陀の後ろにぞろぞろと並ぶ僧侶の像がある。恥ずかしがり屋の小僧が、ちらちら顔を出しながらこちらをうかがう姿がかわいかった。


ミャンマー バゴー

午後2時、左に曲がるとチャイティーヨーに行く分岐点を通過。今日はこのまま直進しバゴーに行くが、この後にバゴーから戻り、ここからさらに南下していこうと予定している。




ミャンマー バゴー

この交差点で少し休んでいると、目の前をいろいろな乗り物が通過していく。後ろにリヤカーを付けたバイクは、運転手がミャンマーでは珍しくヘルメットをしているが、後ろのリヤカーに乗っている人もヘルメットをしていた。車高の倍以上の荷物を満載した車も…。


ミャンマー バゴー 時計塔

バゴー到着


ミャンマー バゴー 時計塔

午後2時20分、時計塔のある交差点に差し掛かり、バゴーの中心部に入った。


ミャンマー バゴー ホテル


ミャンマー バゴー ホテル

街中を走っていると、タウングーでいっしょだったフランス人夫妻を乗せた車を見つけたので声をかける。夫妻は私よりも先にタウングーを出発していて、今日はヤンゴンまで向かう予定だった。途中、撮影していたので、私が追いついたようだ。すごい偶然に喜ぶ。

さて今日の宿だが、何も決めてないので、通りに看板が出ていたホテルに行ってみる。わき道に入りすぐだと思っていたが、かなり奥まで進んだところにJade Gaden Hotelがあった。ガーデンホテルという名につられてきたが、特別な庭があるわけでもなかった。ただホテルの裏側に新館があり、そこに入るには鍵がかかった門があるので、バイクを駐車しておくには安全なのが気に入り、ここに泊まることにした。


ミャンマー バゴー夕食

昼食を食べてなかったので、午後4時とちょっと夕食には早かったが、ホテルのレストランで食べる。このホテルも言葉が通じないので、無難な野菜炒めとスープを注文。味は普通だった。

投稿者: asiansanpo

元読売新聞東京本社写真部。2016年3月、早期退職し、アウンサンスーチーの新政権が誕生したミャンマーに移り住み、1年半にわたり全土を回りながらミャンマーの「民主化元年」を撮影。2018年9月からは、エベレストのふもと、標高4000㍍の村で変わりゆくシェルパ族とともに9か月間生活した。日本では過疎地を拠点とし、衰退していく地方の実態を体験している。

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