妙蔵寺パゴダ建立
昭和21(1946)年8月に復員し、ビルマから帰国した堯英上人は、妙蔵寺で戦没者の冥福を祈っていたが、昭和35(1960)年、従軍していたビルマ方面軍独立有線第94中隊副官の原田五郎氏が来寺したことをきっかけに翌年、中隊生存者有志による慰霊法要を妙蔵寺で行った。
その後、戦友有志の協力を得て、堯英上人は「世界平和パゴダ」建立を発願し、昭和39年4月から独力で托鉢募金を開始した。東海道本線各駅頭や農村各地の門口に立ち募金を募ったが、中には心無い人に罵声を浴びさせられたりする苦労もあり、資金集めは5年もの長い月日がかかった。
昭和43年9月、末寺の墓地が荒廃していたので、檀家総出で耕運機二十数台を使用し墓石を妙蔵寺に集積、パゴダの礎石とした。また掘り出した遺骨は焼骨した後に新墓地に納骨。またそこから1300余の分骨をパゴダに合祀した。
当時の妙蔵寺への道は狭く、建設車両が入れなかったため、まず農地を買い上げ、道路拡張をした。またパゴダ建設の敷地は妙蔵寺所有の土地ではなかったため、敷地を買い上げた後、重機を使って造成を始めた。
パゴダを建立するにあたって堯英上人はどのような形にするか悩んだという。当時のビルマについてはまだ情報も少なかったため、パゴダの形はヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真を参考にした。高校生だった息子の寿英さんといっしょに約1カ月間かけて模型を作って検討した。
検討の結果、下の入り口部分を和風にしたため、模型の形とは少し変わった。それを地元の設計士に依頼したが、日本にはない独特の建物に設計士もいろいろ考えただろう。
昭和45年5月、無事パゴダは完成し、八木沢の子供たちが稚児行列で参加し、「世界平和パゴダ」の落慶式が盛大に執り行われた。
お稚児さんの衣装は京都から取り寄せ、着付け師も京都から呼び寄せて、地元の方も協力して着付けをしたという。当時の写真を見ると、今では想像もつかないほど子供が多かったことがわかる。
式には当時のビルマ政府・仏教会派遣のウ・ケミンダ大僧正がビルマから参加。また静岡県下のビルマ戦没者遺族も招待された。