バイクで走ったミャンマー2万㌔
2016年3月、ミャンマーでは野党だったアウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が新政権を樹立した。長い間、軍事政権が続いていたミャンマーでは、歴史的転換期を迎えた。
私、写真家・川口敏彦は1995年からミャンマー報道に関わってきたが、これから大きく変わっていくだろうミャンマーを現地で見てみたいと思い、勤めていた新聞社を早期退職し、ミャンマーに1年半にわたり滞在した。現地で購入したオートバイでミャンマー全域を走った距離は2万㌔だった。
写真家・川口敏彦のプロフィールはこちら
軍事政権時代のミャンマーは半鎖国政策も取られており、外国人が自由に地方を訪問できるような国ではなかった。私が初めてミャンマーを訪れたときには、国営の旅行代理店でしか国内航空券を購入できず、必ず現地ガイドをつけなければならなかった。このガイドというのは、言ってみれば外国人の監視役でもあったのだ。
2011年に発足した軍出身のテイン・セイン大統領は民政移管の流れを作り、野党NLD政党の指導者だったアウンサンスーチーを自宅軟禁から解放した。国内も徐々に自由化されてきたおかげで、外国人も許可なく訪問できる場所がしだいに増えていった。
2016年3月に政権交代したときに、外国企業がどっとミャンマーに押し寄せた。東南アジアASEAN10か国中、ミャンマーは「アジア最後のフロンティア」と呼ばれていたが、これはASEANの中で経済発展から唯一、取り残された国という意味だった。しかし写真家にとっては逆にアジアらしい昔の風景が残っているという国でもあった。
「このミャンマーを今、撮影しなければ、アジアのノスタルジアはもう記録できない」と思い、会社を辞めてミャンマーに行き、オートバイを購入してミャンマー全域を走り回った。ミャンマーには首都ネピドーのほかに、7地方域(Region)、7州(State)という14行政区に区分けされているが、この全部をバイクで走ったという人は、おそらくいないのではないだろうか。
当時はまだ、ミャンマーの地方の情報は少なかった。バイクで走っていても、新しい発見が毎日のようにあった。その中で、このミャンマーという国がだんだんわかってきた。開発の手が及んでいない地方の大自然は、他の東南アジアでは見ることができないくらい美しかった。また敬虔な仏教国であるミャンマーは、どこに行っても仏教寺院があり、そこで熱心にお祈りする人々がいる。そして本当に人々は親切だった。
2021年2月1日、NLD政権が再び総選挙に勝ち、2期目の政権運営を始めようとした矢先に国軍がクーデターを起こし、アウンサンスーチー以下NLD政権幹部を拘束した。民主化された10年が再び暗い軍事政権に逆戻りする。ミャンマー国内では内戦状態に陥っているが、日本でも在日ミャンマー人たちが抗議活動を続けている。その中で「ミャンマーに関わってきた写真家の私ができることは何だろう…」と考えた結果、私がミャンマー全域で撮影してきた”素顔のミャンマー”の写真展を各地で開催し、ミャンマーを知らない人々に関心をもってもらうことで支援活動に結び付けようと考えた。
ミャンマー支援の写真展についてはこちら
クーデターから3年目を迎えた2024年1月、それまで各地を回って写真展を開催してきた活動を見直して、地道ながら継続できる拠点として、地元にあった妙蔵寺ミャンマーパゴダを再生させる活動を新たにやり始めた。今までやってきた写真展は期間限定で、どうしても一過性に終わってしまっていた。またロシアのウクライナ侵攻やパレスチナ紛争などにミャンマーのニュースはかき消されてしまっていた。このような状況下で、拠点作りの必要性を感じていた。
妙蔵寺パゴダがある伊豆市八木沢に私が移住したのは、全くの偶然だった。単に「海越しの富士山が見えるところ」を探していった結果だった。ミャンマーから帰国して、家の周囲を散歩していた時に「妙蔵寺パゴダ」という案内看板を見つけたときは、「どうしてミャンマーの仏塔がこんな過疎地にあるのだろうか」という疑問が先行した。そして亡くなった住職がインパール作戦の生き残り兵であり、生涯を遺骨収集にかけていたというお寺の歴史は、まさに私のテーマと合致していた。これは単なる偶然というよりも、何か見えない糸で手繰り寄せられたのではないか…という感さえある。そんな因縁を感じながら、妙蔵寺パゴダ再生プロジェクトを始めました。
妙蔵寺パゴダでは、次の5つのテーマで展示をしています。
①遺骨収集に生涯をかけた堯英上人の活動
②パゴダ建立の経過
③堯英上人が従軍したインパール作戦の現地
④写真家・川口が撮影した”素顔のミャンマー”写真展
⑤クーデターの経緯と背景の説明
小さいお堂なので展示スペースは狭いですが、いろいろお話ができたらと思います。