妙蔵寺第35世 佐治堯英上人
堯英(ぎょうえい)上人は大正9(1920)年5月2日生まれ。昭和17(1942)年から21年まで太平洋戦争ビルマ戦線に従軍した。太平洋戦争で”もっとも愚かな作戦”と言われたインパール作戦では、独立有線第94中隊の上等兵だった。
敗退する多くの日本兵の餓死していく様子を眼前に見つつ命を保ち、昭和21年8月に復員した。妙蔵寺に昭和45(1970)年にミャンマーパゴダを建立したことは別の項で紹介した通りだが、その翌年にはビルマに渡航し、戦時中のビルマ人の知人から情報を収集した。また妙蔵寺パゴダ落慶式に出席したウ・ケミンダ大僧正の紹介により多くの協力者を得て遺骨の残置情報を得ることができた。
この後、堯英上人は生涯を遺骨収集に捧げることとなる。
昭和47(1972)年 ビルマ・シッタン川流域遺骨収集調査
ビルマでの遺骨収集を厚生省などにかけあったが、なかなか事態が進まない状況なので、個人で観光ビザを取得し、昭和47年12月27日にビルマに入った。政府軍のジープで移動していたが、反政府軍の領域に入ってしまい政府軍のスパイと間違えられて危険な目にあった。1週間ほどの滞在期間だったが、シュエジン町長の協力も得られ、シッタン川流域で遺骨収集を行った。この後、シッタン川流域は反政府軍の支配地域となったため、日本政府派遣の遺骨収集団は入域許可を得られなかった。
昭和51(1976)年 第2回日本政府派遣ビルマ遺骨収集
1月20日から2月18日、日本政府は昨年に続きビルマに遺骨収集団を派遣した。堯英上人はカヤー州ロイコー、シャン州カロー、タウンジー、インレー湖で収骨作業を行った。現地では共産党や少数民族ゲリラと政府軍が交戦しており、治安が非常に悪かったが、以前にビルマ名をもらっていた堯英上人は、現地要人の協力を得ることができ、作業は順調に進んだ。
昭和52(1977)~53年 日蓮宗派遣沖縄遺骨収集
昭和52年4月に行われた日蓮宗主催沖縄戦戦没者33回忌追悼法要に先駆け、「いまだ山野に屍をさらす遺骨の収容が先」と訴えた堯英上人が沖縄遺骨収集団を結成、1月から3月まで沖縄最後の激戦が行われた糸満市で収骨した。さらに翌年2月には現地の要望により、2回目の収骨団を率いて遺骨収集を行った。
昭和53(1978)年~55年 日蓮宗派遣サイパン島遺骨収集
沖縄収骨の後、日蓮宗はサイパン島での遺骨収集のため収集団を派遣した。団長の堯英上人は、収骨にあたって地元の信頼を得ることが先決と考え、自ら現地に移住して畑を開墾するという独自の方法を取り、サイパンの人達と交流を重ねた。
昭和61(1986)~平成元(1989)年 政府派遣北マリアナ諸島遺骨収集
堯英上人はこの期間、毎年日本政府派遣北マリアナ諸島島遺骨収集団に参加し、サイパン島やテニアン島で遺骨収集をした。米政府はマリアナ諸島の先住民の遺跡保存のため、地表に流出した遺骨のみを収集許可をするという方針の下、現地の保安官監視下での作業となった。
平成3(1991)年~4年 日蓮宗派遣サハリン遺骨収集
堯英上人は平成3年に、北海道サハリン平和交流の船に参加して現地調査を行った後、翌年9月1日から7日まで「日蓮宗サハリン遺骨収集団」を率いて、北緯50度線の旧日ソ国境地帯で発掘作業を行った。サハリンには幸子夫人も同行、また「追悼の碑」を現地に建立した。また帰りの船上では、大韓航空機撃墜事件の犠牲者に洋上から法要を行った。
平成6(1994)年 最後のサイパン遺骨収集
1月から2月にかけて政府派遣サイパン遺骨収集団に参加、堯英上人の生涯で最後の遺骨収集となった。厚生省に招かれて、5月30日に千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われた礼拝式に出席した時の堯英上人のアルバムには、「505柱の遺骨を日本政府に引き渡すことが、ようやく終わりました」、「今年の遺骨収集はこれで終わったことになる」と記されている。すでに来年に向けて遺骨収集のことを考えていたのかもしれない。