
遺骨収集に執念を燃やした佐治堯英
その原点は戦地に残された戦友たちへの思い
妙蔵寺の住職だった佐治堯英(さじ ぎょうえい)は1943年(昭和18年)、旧陸軍の「独立有線第94中隊」の通信兵としてシンガポールに派兵された。
翌1944年、ビルマ戦線に移動し、史上最悪の作戦と言われたインパール作戦に従軍する。中隊は269人中、64人が戦死、病死をしたが、堯英は1946年、八木沢に復員した。
復員後、妙蔵寺の住職の傍ら、地元の中学校の国語教師として教育に従事。
一方、ビルマに残されたままの戦友の遺骨を帰国させたい…という思いが強くなっていく。
1972年(昭和47年) ビルマ・シッタン川流域



厚生省にかけあっても進展しないため、個人でビルマのビザを取得し現地調査した。わずか1週間の滞在で、シッタン川流域を訪れた。
当時のビルマは社会主義の時代で、自由に外国人が地方に行けなかった。
この資料を持って、国や全国の戦友会に遺骨収集を呼び掛けた。
1975年(昭和50年)1月20日~2月18日 ビルマ
日本政府遺骨収集団



堯英の努力が報われ、日本政府は初めてビルマに遺骨収集団を派遣。堯英はカヤ―州ロイコー、シャン州カロー、タウンジー、インレー湖で遺骨収集を実施。
現地では共産党や少数民族ゲリラと政府軍が交戦していたが、ビルマ名を持っていた堯英は現地要人の協力を得ることができ、現地の作業は進んだ。
1976年(昭和51年)1月~3月、1977年2月 沖縄
日蓮宗遺骨収集団



日蓮宗主催沖縄戦戦没者三十三回忌追悼法要に先駆け、「いまだ山野に屍をさらす遺骨の収容が先」と訴えた堯英が、沖縄遺骨収集団を結成。沖縄戦最後の激戦が行われた糸満市で収骨した。
さらに翌年2月には、2回目の収骨団を率いて収骨した。
1978年(昭和53年)~1980年(昭和55年) サイパン島
日蓮宗遺骨収集団



日蓮宗はサイパンに遺骨収集団を派遣した。それまでは日本政府の遺骨収集団が派遣されていたが、現地人案内による不十分な収集だった。
サイパン島はすべて私有地なので、遺骨収集は地主の信頼を得ることが先決だと堯英は考え、現地に移住して畑を開墾したり、現地の人々に日本語を教えたりして交流を重ねた。
1986年(昭和61年)~1989年(平成元年)
日本政府派遣北マリアナ諸島遺骨収集団



堯英は日本政府が派遣する遺骨収集団に毎年参加し、サイパン島やテニアン島で作業した。米政府はマリアナ諸島の先住民の遺跡保存のため、地表に流出した遺骨のみ収集許可をするという方針の下、現地の保安官監視下での作業となった。
1992年(平成4年)9月1日~7日 サハリン島
日蓮宗サハリン遺骨収集団



1991年(平成3年)に堯英は「北海道サハリン平和交流の船」に参加して現地調査を行った。翌年、日蓮宗の遺骨収集団を率いて、北緯50度の旧日ソ連国境地帯で遺骨収集を行った。
日ソ関係の複雑さや、永久凍土との戦いなど困難続きだったが、作業中に現地の子供たちがスコップを貸してくれたり、炊事用具を運んでくれたりして、すっかり仲良くなった。
幸子夫人も同行し、現地に「追悼の碑」を建立した。
1994年(平成6年)1月~2月 サイパン島
日本政府派遣サイパン島遺骨収集団


堯英にとって、このサイパン島での遺骨収集が最後となった。
厚生省に招待されて5月30日に千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われた礼拝式に出席したときのアルバムには、「505柱の遺骨を日本政府に引き渡すことが、ようやく終わりました」「今年の遺骨収集はこれで終わったことになる」と記されている。すでに来年に向けて遺骨収集のことを考えていたのかもしれない。


日本ビルマ文化協会
1984年~1992年まで、妙蔵寺で毎年夏、文化協会関東支部青年部に所属する日本人とミャンマー人の若者たちが妙蔵寺で合宿を行い、交流を深めた。今では過疎地の八木沢も、かつては国際的だった。


