標高3840㍍で新元号「令和」を考えてみた

日本の新元号が「令和」に決まったというニュースを、ネパール・エベレスト街道の標高3840㍍の村で聞いた。いつもはネットがつながらない日も多いのだが、官房長官が発表した4月1日午前11時半、ネット環境は良好で、NHKのホームページで生中継された映像を、こんな山奥から見られた。すごい時代になったもんだ。

新元号自体には何の感想もないのだが、日本から遠く離れた特異な場所でそのニュースを聞いたことに、いろいろ思いを巡らせた一日となった。おそらく日本では大変な騒ぎとなっているのだろうが、僕がいる村はもちろん何の関係もなく、普段通りの静けさだ。それは、たとえて言うならば、夏祭りの日、まったく音が聞こえずに、遠くで小さく花火が上がっている光景を見ているような感覚だ。

実は、「昭和」から「平成」に元号が変わったとき、僕はその歴史に残る日にどっぷりとつかっていて、とってもあわただしい一日を過ごしていた。今回は天皇陛下が崩御される前に皇位継承が行われるという、憲政史上初めての出来事だが、昭和から平成に変わった日は、すなわち昭和天皇が亡くなった日だ。

この日、朝6時前だったか、会社から自宅に電話がかかってきてたたき起こされた。「高木侍医長が皇居に入った」と短く告げられすぐ切れた。おそらく皆さんは何のことだかわからないだろう。1988年9月19日、昭和天皇は大量吐血された。この日からマスコミは24時間体制で皇居に出入りできるすべての門に張り付いた。僕も新聞社の写真部員として、その一員に加わった。当初、すぐにでも崩御があるのかと、ものすごい緊張感があったが、容態は小康状態を保ち、長期間の張り込みとなっていった。体力勝負の取材となり、先輩たちが年功序列で順に休日を取っていく中、入社2年目の僕に回ってきたのが、確か張り込みが始まってから50日以上経っていたと思う。

当時、1か月の間に皇居の外で夜を明かした回数が多いときで13回に達した。ということは、26日間泊まり勤務をしていたことになる。それ以外は会社の中で普段の仕事をこなしていた。この異常な勤務体制は当時、どこのマスコミも同じだったようで、噂で聞いたが、他社では過労のため亡くなった社員が数人いたという。張り込みが始まった9月はまだ残暑厳しかったが、その後木々も紅葉し、やがて葉が落ちていった。そして夜食に配られた弁当や飲み物が、朝方食べようと思ったら凍ってしまうぐらいの冬を迎えた。

年が明けて1987年1月7日。前に書いた自宅への電話があった日だ。高木侍医長は昭和天皇の治療の責任者であり、侍医長が急に動いたときは昭和天皇に異変があったときだった。その後の報道で、昭和天皇は午前6時33分に崩御された。会社に呼び出された僕は、すぐに皇族以外の人々が出入りする皇居・乾門に配置された。天皇崩御のニュースが流れた後は、乾門には弔問に訪れる車列が延々と続いた。その一台一台を窓越しに撮影していく。何台の車、何枚シャッターを押したのか、見当もつかないほど夜まで撮影し続けた。そして日付が変わる午前0時に近いころだったか、乾門から一台の車が出てきた。その車には高木侍医長が乗っていた。その姿を撮影して、やっと上司から帰社命令が出た。僕の昭和の終わった日は、高木侍医長に始まり、高木侍医長に終わった。その日一日におそらくわが社の中で一番シャッターを押したのは僕だと思う。そして紙面に掲載されたのは、最終版に小さくたったの一枚。その写真は、皇居を後にする高木侍医長の写真だった。

4か月に及ぶこの取材は異常な取材だったと言わざるを得ない。というのも、これは昭和天皇の崩御を待っていたことに他ならないからだ。御自身は第2次世界大戦で「大元帥」から「象徴天皇」に、日本は敗戦から世界第2の経済大国になるまでの激動の昭和時代の終焉を意味するのだが、直接的に4か月もの間、死を待つという取材は僕の30年の取材活動でもほかになかったことだった。昭和が終わった日も、僕は昭和天皇に極めて近い場所にいたにもかかわらず、車の車列以外何も見ていない。こんな取材の仕方は極めて日本的なやり方で、ほかの国でこんなやり方をするだろうか、当時も今も疑問である。

今回の「平成」から「令和」への移行は天皇の生前譲位なので、「昭和」から「平成」への移行の時のようにさまざまなことが自粛となった暗さはないだろう。記者会見した安倍首相の談話でも「一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、令和に決定致しました」と話している。安倍政権としては、新元号を明るい話題として政権維持に使おうとする意図は当然あるだろう。それが政治だ。特に平成時代はバブルがはじけた後の日本の長期低迷期であったし、大災害が続いた時代だった。新元号で平成の暗いイメージを払拭し、明るい方向に日本が進んでいこうと考えるのは、国民として当然なのだろうと思う。

ただ、僕は今、日本から遠い標高3840㍍の村にいる。音のしない花火を遠くから見ているような感覚で、かなり冷静に、冷めた目でこの新元号発表のニュースを見ている。新元号でスッパリと今までの日本の流れを断ち切れるなら、そんなたやすいことはない。しかし現実はどうだろう。日本はデータ的にも間違いなく、令和の時代は少子高齢化と人口減少になっていく。大地震は科学的にかなりの高確率で30年以内に起こるとされている。普通に考えるならば、令和の時代は平成よりも日本人にとってつらい時代となるのではないか。

聞いていたニュースの中で、誰かが「令和は「和」の字が昭和と共通しているので、何となく昭和をイメージしますね」と語っていた。もしかすると安倍政権も昭和と重ねたい意図があったのかもしれない。平成時代、多くの日本人は「昭和時代の高度経済成長よ、もう一度」と願っていたと思う。しかし冷静に考えれば、そんな時代はもう二度とやってこない。令和の時代は現実を直視し、「昭和の大躍進復活の夢をあきらめ、厳しい現実の中、いかに暮らしていくのか」ということを考えたほうがいいのではないか。「昭和」から「平成」への歴史の転換期に、その渦中にいたにもかかわらず車列しか見ていなかったのに、いまは日本から遠い、標高3840㍍にいながら、日本の未来について考えている。おかしなものだ。

ところで、これを書きながら、うかつにも高木侍医長のその後を知らないことに気が付いた。そこでネットで調べてみると、1991年(平成3)9月4日に亡くなっていた。昭和天皇の崩御からわずか2年半後。自らの病気の治療を拒絶し、昭和天皇への殉死ともいわれたようだ。「殉死」と書いても、今の若い世代には何のことかよくわからないだろう。極めて昭和時代までの日本的な言葉だ。時代は変わっている。もう昭和を忘れよう!

投稿者: asiansanpo

元読売新聞東京本社写真部。2016年3月、早期退職し、アウンサンスーチーの新政権が誕生したミャンマーに移り住み、1年半にわたり全土を回りながらミャンマーの「民主化元年」を撮影。2018年9月からは、エベレストのふもと、標高4000㍍の村で変わりゆくシェルパ族とともに9か月間生活した。日本では過疎地を拠点とし、衰退していく地方の実態を体験している。

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