妙蔵寺写真展から(堯英上人のビルマ遺骨収集)

太平洋戦争でインパール作戦に従軍し、ビルマから日本に復員した妙蔵寺住職の故佐治堯英上人(1920-1995)は、1970年(昭和45年)に境内にビルマ式仏塔(パゴダ)を建立した翌年、戦友たちの遺骨収集の予備調査のため、戦後初めて念願のビルマに入りました。その時に堯英上人が撮影した写真が今でも妙蔵寺に残されています。


堯英1971年ビルマ遺骨収集団

一行はラングーン(現ヤンゴン)、マンダレー、ザガインを回り、遺骨調査をしながら慰霊祭を行っています。この写真はマンダレーヒルで行われた慰霊祭の模様です。

戦後、日本人が海外旅行に出国できるようになったのが1964年から。その後、戦地にそのまま残る戦友たちの遺骨を探しに、日本からこのような遺骨調査団が結成されて各地に向かいます。

この写真には堯英上人が「飯盒のそばで短い稲穂をながめる。記念に稲穂だけ日本に持ち帰る」と記しています。この写真がどこで、どのような状況で撮影されたのか定かではありませんが、おそらく農婦が稲の生育を見に田んぼに行ったときに飯盒を弁当箱代わりに持って行ったのではないかと想像します。


堯英1971年ビルマ遺骨収集団


飯盒

私が山岳少数民族の村を訪れたときに、何度か飯盒を見かけました。初めはミャンマーも飯盒で米を炊く文化なのだと思っていましたが、ある村でその話をしたら、長老が「それは日本兵が置いていったものだよ」と教えてくれました。戦後70年以上たった今でも使われ続けた飯盒は真っ黒くなっています。

インパール作戦で生き残ったある方に話を聞いたとき、「敗走するときには重い鉄兜や銃は真っ先に捨てたが、飯盒だけは食事に欠かせないので最後まで持っていた」といいます。飯盒が残されているところは、そこで日本兵が亡くなったところでもあります。

投稿者: asiansanpo

元読売新聞東京本社写真部。2016年3月、早期退職し、アウンサンスーチーの新政権が誕生したミャンマーに移り住み、1年半にわたり全土を回りながらミャンマーの「民主化元年」を撮影。2018年9月からは、エベレストのふもと、標高4000㍍の村で変わりゆくシェルパ族とともに9か月間生活した。日本では過疎地を拠点とし、衰退していく地方の実態を体験している。

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