世界遺産べイタノー

ミャンマーツーリング。ピィーから北上し、マグェ管区の中心地マグェに向かう。途中、ピュー族文化の遺跡で世界遺産のベイタノー遺跡があるので立ち寄る。世界遺産に登録されたピュー遺跡は3つあるが、2つ目の見学。その後マグェまで走る。

牛市場


ミャンマー ピィー

午前8時過ぎ、ピィーのホテルを出発。朝方の霧がまだ晴れやらぬ中、寒さをこらえて走り始める。今日の目的地はマグェまで。距離は220キロある。


ミャンマー ピィー 牛市場


ミャンマー ピィー牛市場

30分ほど走っていると、やけに牛を乗せた車が前を走っている。どこに行くのかと思っていると、広大な空地に集められていた。そこではみんなが見ている前で歩かされ、品評会が行われている。農業国のミャンマーでは牛が人の数以上にいるようように思えるほど、農村地帯では見かけるのだが、こうして売買がなされていた。


ミャンマー ピィー牛市場


牛を運んできた車は3輪車が多い。よく見ると大型のバイクの後ろに荷台を取り付けたもの。中国語で書かれているため、中国製なのだろうが、これがなかなか良くできていて、ギアーを変えるとバックにも走る。牛2頭乗せてもスピードがかなり出るので、エンジンの排気量も大きそうだ。

サトウキビ畑


ミャンマー ピィー-マグェ サトウキビ


ミャンマー ピィー-マグェ サトウキビ

1時間ほど走ると、国道沿いに5メートルほどの背の高い植物を刈っている人がいる。しかもその周辺がほとんどその植物を育てている畑で、この地域の重要作物だとわかる。興味を持ったので近づいていくと、刈り取った植物を運び入れている小さな小屋に案内してくれた。


ミャンマー ピィー-マグェ サトウキビ


ミャンマー ピィー-マグェ サトウキビ

その小屋に近づいていくと、何とも言えない甘ったるいにおいがしてきた。中では黄色いどろどろの液体を煮詰める作業が行われている。


ミャンマー ピィー-マグェ サトウキビ


ミャンマー ピィー-マグェ サトウキビ

その煮詰めた液体を広げて乾かすと黄色いチョコレートのような板状になる。しかもかなり甘い。これはサトウキビから砂糖を作っている工場なのだった。黄色い砂糖は精錬されてはいないが、素朴な甘さでおいしい。どんどん食べろと勧められたが、そうそう食べられる甘さではない。


ミャンマー ピィー-マグェ エーヤワディー川


道はエーヤワディー川に沿って進む。流れはなだらかで、沿岸はのどかだ。国道から一歩入れば道は舗装されておらず、牛車がすれ違う農村風景。


ミャンマー ピィー-マグェ 屋台


ミャンマー ピィー-マグェ 看板作り

途中、美しい花に覆われた屋台を見かけた。今まで見てきた屋台の中でも一番美しいと思う。また別の場所では村人たちが寺院の行事を知らせる看板作りをしている。


ミャンマー Taungdwingyi

やがて道はエーヤワディー川から離れ、東に向かっていく。午後1時15分、Taungdwingyiという街を通過。この街から右に行けば山越えで首都ネーピードー、左に行けばマグェに行く分岐点だ。街には1947年に独立を前に暗殺されたアウンサン将軍と閣僚たちの像が並ぶ広場が中心部にある。各地にアウンサン将軍像はあるが、これほど立派な像は見たことない。

世界遺産ベイタノー遺跡


ミャンマー 世界遺産 ベイタノー遺産

午後2時、ピュー王朝の王都であったベイタノー遺跡に到着。ゲートには世界遺産登録を示す立派な石碑とりりしい門番像が立っている。


ミャンマー 世界遺産 ベイタノー遺産


ミャンマー 世界遺産 ベイタノー遺産

門を入ると考古学博物館がある。世界遺産に登録されている3つのピュー遺跡の中では一番充実されている博物館というが、確かに展示されている出土品は面白くて貴重なものばかり。


ミャンマー 世界遺産 ベイタノー遺産


ミャンマー 世界遺産 ベイタノー遺産

古代ピュー族の顔だろうか?


ミャンマー 世界遺産 ベイタノー遺産

残された足跡。ピュー族の足跡だろうが、意外と大きい。しかし貴重な足跡が残されていたものだ。


ミャンマー 世界遺産 ベイタノー遺産

遺跡から出土した壺や甕が展示されている。この出土品の特徴は素晴らしい装飾だろう。日本の土器もかなり美しいが、ここのものもかなり高度な文化だ。


ミャンマー 世界遺産 ベイタノー遺産

出土したコイン。カンボジアやタイでも出土しているといい、ピュー王国が広い公益をしていたことがわかる。


ミャンマー 世界遺産 ベイタノー遺産


ミャンマー 世界遺産 ベイタノー遺産


ミャンマー 世界遺産 ベイタノー遺産

ベイタノー遺跡は昨日見たスリ・クシェトラ遺跡のような王国の境界を示す塔はないようだ。遺跡には宮殿跡や僧院跡のレンガが残る。この円形のところはどうやって使われたのだろうか。当時はきっとおしゃれな宮殿だったに違いない。

ところで、この遺跡には案内板が少なすぎて、帰り道が迷ってしまった。行きは道標通りに行ったが、帰る段階になって走ってみると、わだちがいくつかに分かれており、どちらに行ったらいいかわからなくなった。世界遺産ならもっと整備してほしいところだが…。

マグェ


ミャンマー マグェ


ミャンマー マグェ

遺跡から道はまっすぐだが、なかなかマグェにつかないといった感じ。残りの距離からするとぎりぎり日没前に到着できるかといったところ。いつも到着地に明るいうちにつけるかどうか、はらはらしながら走っている。


ミャンマー マグェ

午後5時過ぎ、やっとマグェに入る。しかしこの街はかなり大きいようで、市内に入ってもなかなか中心部につかない。そのうちにどこを走っているかわからなくなってきたので、とにかくエーヤワディー川に出ることにした。


ミャンマー マグェ Nan Htike Thu Hotel


ミャンマー マグェ Nan Htike Thu Hotel

早速、今晩の宿探しを始めるが、やはりエーヤワディー川沿いに泊まりたいところなので川沿いに走る。おそらく川沿いのロケーションにホテルがあると見込んでのことだったが、やはりNan Htike Thu Hotelという大きなホテルがあったのでそこに決めた。プールがある、なかなか立派なホテルだ。


ミャンマー マグェ エーヤワディー川


ミャンマー マグェ エーヤワディー川

夕方、ホテルを出ると、目の前のエーヤワディー川に夕日が沈むところだった。川幅はかなり広いし、川の真ん中には広大な中洲がある。中州から水浴びを終えた家族がこちらに渡ってくる。目の前の流れは歩いて渡れるくらいの深さで、本流は中洲の向こうのようだ。ピィーからマグェまで220キロ。今日は疲れたので、川沿いの食堂で夕食を取り寝た。

投稿者: asiansanpo

元読売新聞東京本社写真部。2016年3月、早期退職し、アウンサンスーチーの新政権が誕生したミャンマーに移り住み、1年半にわたり全土を回りながらミャンマーの「民主化元年」を撮影。2018年9月からは、エベレストのふもと、標高4000㍍の村で変わりゆくシェルパ族とともに9か月間生活した。日本では過疎地を拠点とし、衰退していく地方の実態を体験している。

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